inoueyuki.com tw_icon fb_icon

2018/11/15

エッセイ

しごとのことば

美術館に勤めていたころの同僚が、Ceci n’est pas un travail(これは仕事ではない)という名の展覧会を開く、という告知を行なっているのをSNSで見かけました。仕事でArtに関わっているが、プライベートで作品を作るのは久しぶりとのこと。なかなか興味を唆られるネーミングだな、と思って、フト気がついたことには、travailって、travelと綴りが似ている。もしかして、同じ語源なのでは?
調べてみると、果たしてその通りでした。

そもそもtravailの語源は一般的にラテン語のtripaliumから来ていると考えられていますが、何せtripaliumは3本の杭を使った拷問の道具なので、どうやら辛苦や労苦といった、マジ辛い…もう無理、というようなネガティブな状況を表しているようです。
こういう語源と言われるものの常として異論もあるようですが、フランスでは驚くほど労働時間が短い、ということが度々ニュースで取り上げられているところをみると、仏蘭西人にとって、仕事が重荷であることは(勝手なイメージだけど…しかも人によりけりだとは思うけれど)なんだか納得できるような気がします。

そこでtravelも同じ言葉が語源になっている、というのは現代人からすると少々意外な印象を受けますが、おそらく昔は旅行=観光というよりは、必要にかられて旅をすることの方が多かったのでしょう。行商隊や聖地巡礼、はたまた移住やコミュニティからの追放などで移動せねばならない場合、整備されていない道や峠を越えることを考えると、単純に物理的な困難だけでなく治安も悪かったでしょうから、まず安全に目的地に着くまでは全然気が休まらないし、相当辛かったんじゃないかなと思います。

国は違えど江戸時代の日本でも行商人は護衛をつけていたみたいですし、駕籠は、急ぎの乗り物として使うと五臓六腑がひっくり返るほどで、駕籠舁も胡散臭い人が多かったというし。travelがtripaliumから来ていると聞いた時、私はまずそのイメージが頭に浮かびました。もしかしたら、travelという言葉の印象が変わったのは、ここ100年くらいの話なのかもしれません。

ところでもう一つ、仕事絡みで面白い語源だと感じた言葉があります。それはアルバイト。
travailという言葉は、知っている人は知っている女性用の求人サイト名「とらばーゆ」になっていますが、アルバイト、という言葉はもっと一般的に広く使われていますよね。これは元々、ドイツ語のArbeitから来ているそうで、その意味は「仕事」「研究」「業績」など。日本では、明治期の学生たちが学業の傍で行なっている内職のことを、隠語、まあ一種の流行り言葉のようなものとして、アルバイトと呼んでいて、そこから今のような用法になったとか。
英語圏で現在日本で使っているような「アルバイト」を指す言葉はないらしく、働いている状況によってpart time jobやtemporary jobなどと使い分けるようです。まあ確かに、jobはjobだもんね。

そして意外なのが中国では”仕事”や”働く”ということを表す言葉がそもそも近代までなかったらしく、日本人の労働に関する言葉遣いは、完全にオリジナルらしいこと。そもそも日本は、国民の三大義務として憲法に「勤労の義務」が記載されているような国。よく真面目に働く日本人、と讃えられることが多いですが、民主主義、資本主義社会にあっては憲法に義務としてまで制定されているのは少し変で、というのもこれは元々旧ソ連の憲法からきていて、日本の憲法草案を作る際にマルクス主義者によって持ち込まれたのが、そのまま採用されたらしいのです。

元となっているのは、これ。

ソビエト社会主義共和国同盟憲法 第12条

”ソ同盟においては、労働は『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力あるすべての市民の義務であり、名誉である”

名誉かー。なんかまあ、そうなのかな。名誉といえば、名誉なのかな。なんとなく、ちょっとブラック臭がする言い回しに聞こえませんか?私にとっては、抵抗感を感じる一節です。
だいたい、働かざるもの食うべからず、という言い方がよくないですよね。元々新約聖書からきているらしいですけれど。
先ほど、中国では働く、というような言葉がなかったと書きましたが、それは近代まで国民の90%は農民だったからであり、仕事を表す言葉としては「作」や「耕」が使われていたそうです。「耕」は「晴耕雨読」という四字熟語で馴染み深いですが、「作」は『働かざる者は食うべからず』とは似て非なる禅語のフレーズの中で使われています。

”一日不作一日不食”
一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食(くら)わず

そう、なにか物を作らない・拵えないならば、食べない・食事は頂けない、というような意味です。
これなら私にも分かる。確かに、作らないのに消費ばかりしていては、自分も、世の中もバランスが崩れますからね。
この”自ら作り、そして得る”というシンプルな境地で働くことができれば今のように社会は疲弊しないんじゃないかなと考えたとき、やっぱり資本主義でも社会主義でもない、なにかこう別の概念があってもいいと思うんですが。

とりあえず今の私がやるべきことは、仕事がどうとかこうとかは一旦脇に避けて、日々淡々と作すことなんだろうな。いろいろな言葉を経て、シンプルですが、そう思いました。

tweet share
backward
arrow_up

過去記事

→ 全ての記事を見る